追想幻燈の域に至りて、昏冥流亡に達す

古来より幽霊話の枕と言えば、「草木も眠る丑三つ時が」定番であり、現在の時間に直すと凡そ午前2時過ぎである。

古今東西を問わず、人が思慮に耽る時刻はその辺りなのだろう。

 

神聖かまってちゃんならぬ新生党ならぬ四川省な私風情が何を喚いているのやらと申すと、夜更けこそ人間の感覚が一番敏感になり、様々な事に心が届くのだという事。

 

 

 

 

“他人は縛りたいが、自分は自由に暮らしたい”と云う考え方は、人間の基本は性悪説だと確信している私からすると至極当たり前の主張である。

しかし筆者自身は一切他人に興味がない、もとい、他人を自分と同じレベルだと認めていないのだと気づいてしまった。それは、決して他者は私よりも下だと云う事ではなく、それぞれの領域が異なり、同じ領域を共有している存在はありえない。否、あってはならないという事に他ならない。

他者との領域の違いこそが個人を個々人たらしめている構成要素であり、一人でも他者と領域の共有が発生した時点で、その人間は個人としての存在が消滅すると確信している。

つまり、量子の集まりに過ぎない我々人間(他動物含)が人間である最も重要な要素は、認知・受容・思考領域の差異に他ならない。

この事実に気づいた者は、個人は他者に対して自分への賞賛・同情・共感・軽蔑・嫌悪またはそれに類する感情的なあらゆる内面的衝動を本質的に感受できないのだと知っている。天秤を使って長さを測ろうとしたり、定規を使って重さを測ろうととするようなものであって、領域がそもそも異なるのである。

ゆえに、筆者は他者に対して行動の一切を容認する。領域の差異が人間の要素だと知っているにもかかわらず、他者に対する評価、殊自身の内面的感情を本人に伝えることは、その者を人間として捉えてないと伝えることに他ならない。これは大変失礼なことであり、尊厳を傷つける行為なのだ。

賢明な読者諸氏にはこの事を十分理解した上で、他者の評価ではなく、自分自身の価値基準を信じて行動していただく事を求める。

正しい価値基準の構築については次号に託すとして、今回はこの辺りで筆を置くこととする。

 

責了/花押